世の中から公園が消えたら、アニメはクソつまらなくなる
コンプライアンスもここまで来たかと。
馬鹿げた方向に世論が傾かないように、弱小ブログながら公園の意義を発信したいと思う。
もちろん、アニメと絡めて。
公園の存在意義
笑い声が生まれる場所
公園がなくなったら、街から笑い声が聞こえなくなるだろ。
なぜなら、公園ほど解放された場所は他にないからだ。
この世で笑い声を出すのは、子供。
大人だって、声を出して笑えば良いのだが、なぜか年を取るとともに笑わなくなる。
ここでは「大人も子供の心を取り戻そう」と言いたいわけではないので、「笑わない大人たち」については、また別の機会に書くとして。
鬼ごっこや遊具で遊ぶ場所がなくなるとは、子供たちの笑い声を聞く機会がなくなるということ。
少子化が深刻になる現代、子どもがいない家庭の方が多い。
公園がなくなったら、一人で暮らす人たちはどこで子供たちと接点を持てるのか。
それは、話したり一緒に遊んだりする「接点」ではなく、見聞きする機会。
「国民的アニメ」と呼ばれる作品は、いずれも公園が頻繁に登場する。
『サザエさん』では、運動会に向けて親子が特訓する場所。
『クレヨンしんちゃん』では、春日部防衛隊の定例集会を行う場所。
『ドラえもん』では、のび太がジャイアン・スネ夫たちに嫌味を言われる始まりの場所(正確には「空地」だが)。
もし公園が消えてしまったら、これらの国民的アニメは何も起こらない。
遊び場を失った子供たちによるステイホームが、親世代の育児ストレスを増やす。
定例会議を行えない春日部防衛隊メンバーは、徐々に疎遠になる。
仕返しをする必要のないのび太は、ドラえもんを頼ることもなく、ひみつ道具が登場することもない。
なんと、寂しい日常だろうか。
これでは、金曜日の夜にガハハと笑うことも、サザエさん症候群もより一層深刻になるだろう。
何となく立ち寄る場所
前段では、「公園は子供の遊び場」という趣旨を書いたが、大人だって立ち寄りたくなることがある。
何となく考え事をしたい時
勇気を出して想いを伝える時
偶然出会った相手と過ごす時
大人にだって、公園でしかできないことがある。
ブランコに揺られながら、物思いに耽りたい。
何となく一人になりたい。
出会いと別れを切り出したい。
公園には、いろんな人の想いが生まれる場所。
地域のシンボルマーク
最後は、ちょっと真面目な話。
災害発生時、公園は一時避難所になっているケースが多い。
『火垂るの墓』でも、清太と節子は最初に公園に立ち寄る。
ここで、知り合いからお母さんがいると聞かされた小学校に向かう。
また、『東京マグニチュード8.0』でも公園が数多く登場する。
芝公園では、帰宅難民が集結。
災害は、家で起こるとは限らない。
時には、この作品のように何キロも離れた自宅を目指すことも。
炊き出しや給水場などは、外から目につく場所に設ける必要がある。
公園をなくすって、誰得?
今回は、割と真面目に公園の存在意義について書いた。
日常にも、緊急時にも、公園は市民になくてはならない存在であることは明白。
20年ほど公園にほど近い家で育ったが、多少うるさくても多少ボールをぶつけられても我が家からは「公園が無くなれば」と声が上がったことがない。
むしろ、集合場所に誰より近く、目の届く場所で遊んでくれるから安心だと、子供も親もありがたく思っていた。
コンプラや公共の福祉とかも大切だろうが、公園が消えた世界はきっと静かすぎて鬱になると思う。