『ワンピース』を「ワンピ」と略す人とは、友達になれない。
何でもかんでも略す風潮が嫌いだ。
地名やメニュー、そしてアニメ作品。
略すという行為自体もそうだが、何より略している時の顔が嫌いだ。
「ドヤ顔」と最初に言い出した人は、きっと何かを略しているやつの顔から着想を得たに違いない。
今は「タイパ」なる時間効率を重視する人が増えているらしく、それに応じて「略さー(何でもかんでも略す人)」も増えている気がする。
そもそも、「タイパ」って言葉が略し文化の筆頭だ。
なぜ、「時間効率」と言うのが嫌なんだろうか?
略したがる文化の背景には、外国語を自分たちなりに使いこなそうとする日本人特有の考えがあると思う。
英語圏では、「タイムパフォーマンス」を「タイパ」なんて略す人は絶対にいない。
「Taipa」がタイのマカオにある島を指すということもあるだろうが、'time performance'を'taipa'と略すことが時間効率UPと考えていないからだろう。
全ての略さーが効率重視で略しているとは思わないが、「略した方が効率良くね?」と真顔で返してくる人も一定数いる。
そう言う背景には、高校時代に『ワンピース』を「ワンピ」と略すクラスメイトがいる。
彼のことはあまり好きではなく、それとなくそのことを伝えていたつもりだったが、ジャンプが発売された次の日は決まって「今週のワンピ見た?」と尋ねてきた。
漫画を読むのは苦手なアニメ派の自分は、毎週のやり取りはどんな宿題よりも重かった。
好きでもない彼のために、必死で「ワンピ」を立ち読みした月曜日。
少なくとも半年は続けていたので、図らずも自分の高校生時代ハイライトに組み込まれてしまったと思う。
まあおかげで、超王道作品『ワンピース』に乗り遅れずに済んだのも事実。
「この作品は今後も長く続く名作だから、多少苦労してでも読み続けろよ」的なことを、彼は僕に教えてくれたのだろうか。
たとえそうだったとしても、彼のことがどうしても好きになれない。
相手が発する「そこまで好きじゃないオーラ」を感じ取れない鈍感さ以上に、『ワンピース』を「ワンピ」と略す姿勢、そして「ワンピ」と発音するときの憎たらしい顔がどうしても好きになれなかった。
あれから10年ほど経つが、『ワンピース』を「ワンピ」と略す人とは出会っていない。
彼は、「略さーの中の略さー」だったのかと思い出に蓋をしようと思ったのだが、。
Wikipediaの『ワンピース』のページを開いて、愕然とする。
『ONE PIECE』(ワンピース)は、尾田栄一郎による日本の少年漫画作品。『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて1997年34号より連載中。略称は「ワンピ」[2]。
略称は「ワンピ」!?
Wikipediaに載っている情報が真実とは限らないことぐらい分かっている。
だが、数万人が編集に携わっているであろう超人気コンテンツのページ。
誰も呼んでいない略称に関する情報がそのままになっているということはないだろう。
ましてや、先頭2行目に。
月に数万は見られているであろう箇所にある「ワンピ」。
つまり、『ワンピース』を「ワンピ」と略すことが世の中のスタンダードであるということなのか。
信じられない、、、
ワンピースという作品を汚されたという気持ちは全くない。
ただ、略すという文化がここまで根付いていることに愕然としている。
もし、この記事を読んでくれている人がいれば、『ワンピース』を「ワンピ」と略すかどうか教えていただきたい。
コメント欄が「ワンピ派」で埋め尽くされるようであれば、今後の身の振り方を変える決意が固まるだろうから。
時には略すことがあります
ここまで、長々と略さない派としての主張を繰り返してきた。
だが、自分も便宜上略して当然と考えている作品名もある。
例えば、「こち亀」。
一度だって、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』と呼んだことはない。
というか、噛まずに言い切れたことがない。
そもそも、これまでの人生でこち亀と発する機会はそれほど多くはなかったが、会話の途中で突然早口言葉に挑戦というバカな真似もしたことがない。
また、作り手が意図的につけた略称については、積極的に使うようにしている。
例えば、この作品。
略称「あの花」。
ビジュアルからも分かるように、囲まれた言葉を繋げると「あのはな」になる。
「作品は作者の手元から離れたら、読者のもの」と、文学部の教授がよく口にしていたが、明記されている点は作者の意図に沿いたい。
なぜか略されない作品
なぜか、略されてもよさそうなのに一向に略されない作品も存在する。
どちらも翌日から日々を憂鬱にさせることでお馴染みの国民的アニメ。
略し文化が定着するにつれて、「さざえ」「ちびまる」などと略されてもよさそうな両作。
しかし、そうした略し方をする人を見たことがない。
「昨日のまるちゃん見た?」と言う人を見た気がしないでもないが、定着するには至っていない気がする。
これには、敬称や愛称を尊重する日本人の考えが投影されているのではないかと考える。
『サザエさん』を「サザエ」と呼ぶと、大御所芸能人を呼び捨てする若手タレントに映り品がない。
また、『ちびまる子ちゃん』を「まる子」と略すと、国宝級の小学生の母親面しているように映る。
自分が中年になっても、いつまでもサザエさんはサザエさんで、まる子ちゃんはまる子ちゃんだという、共通認識が安易に略させないのだろう。
なろう系が嫌いな理由
「なろう系」と呼ばれるジャンルが存在する。
小説投稿サイト『小説家になろう』に投稿された作品を指し、文脈によっては蔑称として用いられることもある。
「なろう系」作品は、一目でそれと分かる特徴がある。
異様にタイトルが長いものは、「なろう系」と考えてまず間違いない。
典型的なのが、『本好きの下剋上 司書になるためには手段を選んでいられません』。
主語と述語がある、つまり文がタイトルになっているのが「なろう系」の特徴。
『ソードアート・オンライン』や『幼女戦記』など、初期作品は一般的なタイトルだが。
自分は、基本的に「なろう系」が嫌いだ。
似たり寄ったりの中身もさることながら、タイトルに何でもツッコんでそれを個性としようとしている姿勢が受け付けない。
小説サイトというWEB上での、コンバージョンを意識してのことだろうが、発想としてはサニー号の名前をつける時のルフィーと同レベ。
「クマ!!白クマ!!ライオン号」、「トラ!!狼!!ライオン号」、「イカ!!タコ!!チンパンジー」。
「パワーワードをいくつか並べれば、読んでもらえるっしょ?」のような浅はかさを感じる。
作品の顔であるタイトルに対してもそんなんだから、中身もどこかで見たことあるコンテンツの寄せ集めに帰着。
まあ、毎クール10作品近くが「なろう系」で占めている様子を見ると、一定のニーズはあるのだろうけど。
その略いりますか?
後半は、特定のジャンル批判になってしまったが、今回言いたかったのは「意味のある略とそうじゃない略があるよね」って話。
そして、願わくば不要な略はこの世から消えてほしいって話。
何かにつけて「効率化」や「改革」が叫ばれる現代で、「略す」という文化は今後も成長を続けると思う。
だが、オンラインにしたことで成約率が落ちる営業マンやショート動画の見過ぎによる読解力低下など、省略が生産性を落とすことになっては元も子もない。
正式名称に固執するでもなく、略称に自動変換するでもなく、良い感じに略して生きていけたらいいなと思う。